借金嫌いの私が唯一利用する借金は「貯金担保自動貸付け」
皆様こんにちは、にこいちです。今日は、私が唯一利用する借金について書いてみたいと思います。
1.借金嫌いの理由
その昔、私の実家は超貧乏でした。私が4歳のころに父親が仕事を辞めてしまい、7年間無職でお金がなかったのです。母が内職をしてわずかな現金収入を稼いでいましたが、焼け石に水。ほとんどの生活費は母方の祖父から出してもらっていました。
今でも目に焼き付いているのは、私が10歳のころ、子供達が寝静まった夜に、父と母がヒソヒソ声で
母「明日のお米がないんだけど、どうしよう?」
父「うーん・・・」
と会話を交わす姿。
折あしく、そのころ、テレビのニュースでは「サラ金問題」が取り上げられていました。夜逃げした一家の自宅マンションのドアにベタベタと貼られた「金返せ」「ドロボー!」「逃げるな」「死ね」等の張り紙は今でもはっきり覚えています。文字のいくつかは赤いマジックで殴り書きされていて、おどろおどろしく、子供だった私は大層おびえたものです。
「夜逃げってどうやってやるのかな?」「学校に行っている間に私だけ家に置いていかれて、他の皆が『夜逃げ』をしたら、私はどう生きていけばいいのだろう?」なーんてことをつらつらと考えている暗い小学生時代でした。
なので、借金は身震いするほど嫌い。どうしても子供のころの気持ちを思い出してしまいます。
2.それでも借金する理由
そんな私も、今までに数回、やむなく借金したことがあります。次のアルバイト代や給料が入るまでに大きな出費(例えばダブルスクールの費用など)があって、手元に現金がない場合でした。1回当たり3~5万円位です。
このとき使ったのが、ゆうちょ銀行の「貯金担保自動貸付け」です。
3.ゆうちょ銀行の「貯金担保自動貸付け」とは
(1)概要
ゆうちょ銀行で総合口座を作ると、通常貯金とセットで定額貯金や定期貯金を申し込むことができます。通帳の前のほうのページは通常貯金のページ、後ろのほうのページには、定額貯金や定期貯金が記入されることになります。
通常貯金の残高が足りない場合に、このセットで申し込む定額貯金や定期貯金を担保にして、不足分を自動的に貸し付けてくれる制度が「貯金担保自動貸付け」です。
例えば、通常貯金の残高が1万円、定額貯金が5万円あり、2万円を引き出したい場合には、通常貯金から1万円引かれ、残りの1万円は定額貯金を担保にしてお金が貸し付けられます。この場合、ATMからは2万円が払い出され、ここは普通の引き出しと何ら変わりがありません。しかし、通帳上の通常貯金の表記は「-10,000」になり、1万円の借入に対し利息を付けて返済しなければならないこととなります。
貸付の際の審査はありません。借金で得たお金の使い道は何でもOKです。特別なカードを作成する必要はなく、普通のキャッシュカードでのお金の出し入れでOKです。
(2)貸付金額の上限
貸付金額の上限は、預入金額の90%以内。すなわち、定額貯金が100万円あっても90万円までしか借り入れられません。
また、1冊の総合口座通帳につき300万円までです。300万円を借りたければ、333万3333円以上(定期も定額も1000円単位なので、実際には333万4000円以上)を預け入れる必要があります。
(3)貸付期間
貸付けの日から2年。
ただし、貸付けの日から2年以内に担保とする貯金が満期を迎える場合は、その満期までの期間となります。
また、元利金継続の担保定期貯金を担保とする場合は、貸付期間の範囲内で貸付けも継続されます。
(4)貸付金利
・定額貯金を担保とする場合:返済時の約定金利(%)+0.25%
・定期預金を担保とする場合:預入時の約定金利(%)+0.5%
※1年を365日とする日割計算
※担保となる定期・定額貯金が2口以上ある場合、どのような順番で担保となるか
①貸付期間が最も長いもの(1番新しく定額・定期貯金にしたものから順に遡って担保になる)
②貸付金の金利が最も低いもの(①貸付期間が同じ場合には、1番利率が低い定額・定期貯金から順に高い方に遡って担保になる)
③個別番号の大きいもの(①②が同じ場合)
例えば、
1 24-4-20 0.04% 50,000円 定額貯金
2 27-5-20 0.04% 100,000円 定額貯金
3 4-1-20 0.002% 100,000円 定額貯金
の複数の定額貯金がある場合に、15万円を借り入れるとどうなるか。
一番最近に預けられた3番が最初に担保になります(9万円分、貸付の利率は年率0.252%、1年当たり約227円、2年で454円)。
次に、2番が1番よりも先に預けられているため、次に担保になります(6万円分、貸付の利率は0.29%、1年当たり174円、2年で348円)。
(5)返済の方法
借り入れた金額と利子に相当する額を、通常貯金に預け入れることで自動的に返済ができます。特別な手続きはありませんし、特別なカードを作る必要もありません。また、貸付期間内であれば、返済回数や1回当たりの返済金額に制限はありません。
※担保となる定期・定額貯金が2口以上ある場合、どのような順番で返済されるか
①預り入れ期間が最も短いもの
②貸付金の金利が高いもの(①が同じ期間の場合)
③個別番号の小さいもの(①②が同じ場合)
例えば、
1 24-4-20 0.04% 50,000円 定額貯金
2 27-5-20 0.04% 100,000円 定額貯金
3 4-1-20 0.002% 100,000円 定額貯金
の複数の定額貯金がある場合に、4-1-20に15万円を借り入れ、1年後の5-1-20に10万円を返済すると、どうなるか。
2番が1番よりも先に預けられているため、先に返済されることになります。2番を担保にした借金は6万円分で1年分の利息は174円であるため、合計6万174円が返済されます。10万円から6万174円を差し引いた3万9826円が1番を担保とした借入金に充てられることになります。1番を担保とした借入金には227円の利息がついているため、3万9826円のうち227円は利息に充てられ、残りの3万9599円が元本の返済に充てられることになります(注:貯金担保自動貸付に対する特別な規定が見当たらないため、民法491条によれば、費用→利息→元本の順に充当されるはずです)。
(5)貸付期間内(最大で2年)に貸付金及び利子が払えない場合、どうなるか。
担保とされた定期・定額貯金が強制的に解約され、その払戻金が返済に充てられ、残額が総合口座の通常貯金に振り込まれることになります。
(6)将来、貯金担保自動貸付けを利用することを前提にした場合、お金を預けるには定額貯金と定期貯金とどちらがよいか。
定額貯金です。貸付金利は定額貯金のほうが断然安いからです。郵便局の職員にも確認しましたが、定額貯金一択を勧められました。(そのため、以後「定額貯金」のみについて言及します。)
3.まとめ
(1)どんな人が利用するとよいか?
・お金が手元にあると使ってしまう人
→現金でお財布に入れていたり、普通預金に預けていると使ってしまう人は、定額貯金にして、自由に下せないよう心理的ハードルを作りましょう。使いすぎると通帳に-(マイナス)ばかりが並ぶのは、悪い通信簿ばかり受け取っている学生のようで、意外とこたえるものです。-(マイナス)を消そうと思うと、仕事でもう少し稼いだり、節約しようという力が出るかもしれません。
・自営業や成果型報酬のサラリーマンで収入が安定していない人
→金融機関(銀行やサラ金)から借り入れする場合に、収入の安定していない人は嫌われます。貸してくれないか貸してくれるにしても低い金額を高い利率でしか貸してくれません。ですので、比較的よい収入を得たときにさっさとゆうちょ銀行で定額貯金を作っておき、借金をできる余地を設けておくとよいと思います。
・学生、アルバイトやパート、専業主婦など、収入が低い人
→そもそも収入が低いと、やはり金融機関から嫌われます。ゆうちょの定額貯金は1000円以上を単位としていますので、収入があったときにへそくりとしてちょこちょこ預けておくと、後で本当に困ったときに助かります。
→いったん貸付金業者に個人情報を渡すと、「新たな借入のご要望はありませんか?」などの営業電話、「期限までに返してください」などの督促電話や督促状等に悩まされることとなります。貯金担保自動貸付けにはそういうわずらわしさは一切ありません。
・保証人がいない人
→定額貯金が担保ですので、保証人は必要ありません。
(2)どんな場面で利用するとよいか?
最大でも借りられる期間が2年ですので、一時的な資金不足をカバーするのにいいと思います。生活費はもちろん、住宅ローンの不足分や教育費の不足分に回すことも可能です。また、金額と心にリミッターを設けながら、借入金を投資資金や事業資金に回すのはありかもしれません。返済できなかったとしても、定額貯金で預けてある金額以上は失わないので「信用二階建てで億単位の借金を負う」なんてことにはなりません。
(3)どんなことに注意すべきか?
郵便局のATMが開いている時間でないと、借入及び返済ができません。また、期限近くなっても督促はきませんので、返済スケジュールを自分で組み立てる必要があります。
以上、ゆうちょ銀行の「貯金担保自動貸付け」について書いてみました。
では、また!
旅行記(10)-まとめ
にこいちです。今回の旅行記のまとめをします。
1.計画の立て方
今回の旅行のきっかけは、旅行記(1)に書いたとおり、木下斉さんのVoicyを聴いたからでした。配信内容がとても気に入ったので、Wordにメモを残し、それを元にA4の紙数枚の旅程表を作成しました。いつ何時ころにどこに行ってその次にどこに行って、というスケジュールを箇条書きでまとめていました。この旅程表があったおかげで、今回の広範囲の移動をこなすことができましたし、ブログを書く際の参考にもなりました。
2.予算と実際の額
予算は、宿泊費を1日6500円、飲食費(3食分)は1日1万円位を目途としました。交通費、拝観料(入場料)、その他を合わせて25万円位かなと思っていました。
しかし実際は、大幅にオーバー。合計で29万3814円かかりました。
宿泊費 | ¥ 52,821 |
交通費 | ¥121,319 |
飲食費 | ¥ 93,240 |
拝観料 | ¥ 22,620 |
その他 | ¥ 3,814 |
合計 | ¥293,814 |
特に予想より金額が大きかったのは、交通費。行きの飛行機代、最初の3日間山口県を周るのに利用したレンタカー代、小倉から博多への新幹線代、博多から広島への新幹線代、広島から東京駅までの新幹線代がかかりました。結局、博多では時間がなくて屋台の食事位しかできなかったので、今回は外せばよかったかもとも思いましたが、コロナ禍がいつまで続くか分からなかったので、行けるときに行きたかったんですよね。もう少し時間がとれれば途中夜行バスにしたりして、もっと節約できたかと思います。
ホテル代はできるだけビジネスホテルやAirbnbを利用し、かなり節約しました。これはだいたい予算(6500円×8泊=5万2000円)のとおりでした。朝から晩まで外を歩き回り、ホテルではお風呂に入って寝るだけなので、私たち夫婦にはこれで十分です。ただ、セキュリティ的に女性1人だとキツいかな、というお宿もありました。1人旅だともっとかかると思います。
飲食費はかなり贅沢をさせてもらいました。朝ごはんはコンビニのパンとコーヒーで済ませましたが、昼や夜は、現地の名物料理など食べられるもの、試せるものはすべて試すことができました。非常に満足です。
拝観料もケチらず、当初の計画で行きたいと上げていたところはほぼ全部行きました。惜しむらくは、コロナ禍でいくつかの施設が閉まっており、行きたかったのに行けなかったことです。例えば、門司の出光美術館、マツダの工場見学、江田島の海軍兵学校は行けなくてとても残念でした。次回のチャンスを待とうと思います。
その他は、もみじ饅頭(おみやげ)やイチが途中で落とした手袋の代わりを買うための費用です。まあ、しょうがない費用かと思います。
3.今回旅行して思ったこと
萩は歴史的・文化的な施設や展示物が充実しており、近現代史好きが旅行するには大変優れた場所でした。奈良・京都・鎌倉当たりと比べてもコンテンツの質の高さは遜色ないと思います。しかし、高齢化が一番激しく、古い建築物の案内人がほとんど高齢の女性ばかりだったのが気にかかりました。若い世代の育成を急がないと、街が維持できないのではないかと思います。
仙崎は、良くも悪くも、金子みすず記念館の人気にかなりあやかっている感じでした。不遇の人生を送った女性の人気に地元の街があやかるのには、少々複雑な気持ちになります。先崎市がシングルマザーに優しい街になるとか、みすずさんに返せない恩を若い女性に返してほしいなあ、と思いました。
長門湯本は、今回行った中で一番風光明媚なところでした。ホテルの前に美しい川が流れているなど景観が素晴らしいのに加えて、再開発で若者向けに街が作り変えられている感じ。高級ホテルも揃っているし、若者やファミリーの憩いの場になるかもしれません。ただ、私たちが行った平日は高齢者が多くて閑散とした雰囲気だったのが気にかかりました。
下関は、今回行った中で、一番荒んだ印象を受けた街でした。駅前なのに、夜遅くまでショッピングセンターの無料のスタンド形式の椅子で所在無げに佇む高齢者がちらほら。家にいたくないか、いる場所がないかのどちらかだと思います。大丈夫かしら。
(2)福岡県(門司、小倉、博多)
門司は、駅舎を始め、古い建築物がきれいに整備されていて見どころの多い街でした。外国に行かなくても異国情緒が味わえたのがよかったです。しかし、食べ物があまり美味しいものがなかったり、市場も閉まっている店が多くて、残念。コロナ禍の影響かもしれません。
小倉は、駅前が賑やかで、商店街もかなり発達していました。松本清張記念館や小倉城があるなど見どころも揃っていました。小倉城近くには立派な図書館もあり、文化度の高さを感じました。市場には活気があり、鮨も大変おいしかったです。北九州に移住するなら、小倉はかなりいい場所ではないかと思います。
博多は、泊まった場所が悪かったんだと思いますが、お客のいない無料案内所ばかりで異様な雰囲気。今回は夫婦で行ったからしのげたけど、女性だけでは行きにくい場所のように感じました。屋台も数が少なくて活気が乏しく、先行きが心配になりました。
(3)広島県(広島、呉)
広島は、修学旅行生が多く、例えば原爆資料館では乗車率125%の電車に乗っている位の混み方でした。これだけ人が多いとコロナに感染するかも、とチラと感じました。夜の街・アーケード街は活気があり、男女共に人出が多かったです。東京や横浜の繁華街の雰囲気に一番近く感じたのは、広島でした。
呉は、ビジネス目的の泊り客が多いのか、観光目的のホテルがほとんどなくビジネスホテルばかりあるという珍しい場所でした。港近くに三菱重工の建物&看板があったり、造船所があったり、ディスコの大きな看板があったり、と様々な企業の城下町っぽい感じです。飲みにいく途中で呉市庁舎を見かけましたが、大層大きくて立派な建物でした。税収がしっかりあるためかもしれません。その一方で、小さい子供連れのご家族が大和ミュージアムに行ったり、夕呉クルーズに若い女性がたくさん乗車して熱心にスマホやタブレットで写真や動画を撮影するなど「海軍さん」に対する信頼・熱気の高さを感じました。こういうところに生まれ育った子供で、素直で優秀な人は、海上自衛隊にすーっと入っていくのかもしれませんね。
(4)まとめ
今回の旅のテーマは「日本の近現代史を学ぶ」。おかげさまで、歴史にまつわる色々な場所を見学できました。特に今回は、色々な職業の人の給料明細表を見ることができたり、二次大戦のころの漫画を見ることができたのが、記憶に残りました。日常生活に関係する意外な資料が、当時の生活を後世に伝えることに感動を覚えます。こういう貴重な資料の寄贈者の皆様や当時の漫画家さんに心から感謝の意を伝えたいです。素晴らしい資料を残して頂き、ありがとうございます。
それでは、また!
旅行記(9)-呉→東京
こんにちは。にこいちです。旅行記(9)に行きます。
【9日目:呉→東京】
朝、ホテルの部屋で軽い朝食を食べてから、午前9時過ぎにチェックアウト。ホテルに荷物を預けて、出発です。
この日、当初は大和ミュージアムの向かいの海上自衛隊呉資料館(てつのくじら館)に行こうと思っていました。しかし、呉の駅の改札口前にある観光ちらしコーナーで気になるちらしを発見!「路線バスに乗って呉観光ボランティアと行く旧海軍の日本遺産巡り」(毎週土日祝日開催、参加料無料(但し呉市内1日乗車券と施設入場料は有料))。予約不要。https://www.city.kure.lg.jp/uploaded/attachment/59450.pdf
てつのくじら館の前まで行きましたが、開くのは午前10時からで見学時間1時間30分、4回の入れ替え制。もう少し呉を色々見学したい気がします。さんざん悩んだ末に、てつのくじら館を諦め、旧海軍の日本遺産巡りのほうに行くことにしました。
てつのくじら館や大和ミュージアムと呉駅を結ぶ歩道橋の途中に「くれ観光情報プラザ」があります。呉市内1日バス乗車券はこのくれ観光情報プラザで購入できるということだったので、まずはそこに向かいました。
「くれ観光情報プラザ」で1日バス乗車券を購入し、しばし掲示物を眺めます。アニメ映画「この世界の片隅に」に登場する場所を掲載している地図(原作者の漫画家こうの史代先生のイラストによるもの)や、日曜劇場(TBSドラマ)「この世界の片隅に」の主人公すずさんを演じた松本穂香さんや夫の周作さんを演じた松坂桃李さんの写真などが展示してあって、嬉しかったです。もともと広島に行くときには呉にも行きたいなあと思ったのは「この世界の片隅に」の影響です。すずさんがよく眺めていた風景を実際に見てみたいと思ったのがきっかけでした。
プラザに参加者が集まったところで出発。ボランティアさん3名(男性1名、女性2名)と参加者3名(軍事マニアっぽい男性1人、イチ、私)。まず、ちらしに集合場所として掲載されている呉駅前のスクリューモニュメントで他の参加者さんがいらっしゃるかどうかを待ちます。15分ほど待ったところで、他には参加者がいないことを確認し、バスツアーに出発です。
駅を背にして左側にある、昔そごうだったビル(今はどの会社も入っていない模様)の前のバス停からバスに乗りました。
10分ほど乗ったところで、眼鏡橋バス停に到着。ここで下ります。
ボランティアさんによると、↓の建物の左奥が将校さんたちの宿舎で右側が下士官の宿舎だったそうです。
サインは「私の根っこはずっと呉にあります。ありがとう!こうの史代 (日付不明)」と書いてあります。貴重なサイン、ずっと残したいですね。
この建物の右の道を行き、途中左に折れて坂を上ると、入船山記念館があります。
当時の料理の献立例が文字だけでなく、サンプル(たぶん蝋細工)で再現されてテーブルの上にセットしてあります。こういう展示は珍しいですね。
献立例は、ソモン(サーモン?)と西洋野菜のテリーヌ、アスぺラガース・スープ(アスパラガス・スープ?)、ボイルドフィッシュ(コールドフィッシュ)、シチュードチッキン 付合 香草(分かるような分からないような?)、ローストビーフ 付合 クレソン ホース・ラディッシュ、レモン・アイスクリーム、タピオカプリン 黒豆添え。案外冷たいお料理が多かったり、デザートは今とあまり変わらないメニューだったり。料理好きの人でミキサーがあるなら、自宅でも再現できそうな感じです。
次に、資料が展示されている建物に行きました。ここでも漫画が展示されています。
「艦内スナップ」「痛くても痛くない三等兵」「いたいか!!」「い・え いたくありません」 三等兵が上官に髪をバリカンで刈られて半分坊主になり泣いている様子の絵。こんな暴力が日常茶飯事だったのでしょうね。艦内の様子が、暴力も含めて、こうして後世に伝えられることはとても大切だと感じます。
「水泳部員の夢」「落ちる瞬前です」ハンモックに寝そべった水兵さん。船のてっぺんから水着で飛び降りる夢を見ています。昭和13年だとまだ戦況がそこまで厳しくなかったのかしら。のんびりモードの漫画です。
「三等はめしの時だけうらやまれ」 何で階級が下の人のほうがご飯の盛りがよかったのでしょうか。羨ましそうによだれを垂らしてみている上官の顔がユーモラスです。目の剥き方などがよく特徴を捉えていて、きっとこんな風に表情を顔に出している人が実際にいたんだろうなあと思います。食べ物の恨みはこわいですね。
入船山公園バス停を出て、子規句碑前バス停で下車し、歴史の見える丘に向かいました。その後、バスに乗って潜水隊前バス停で下車。
倉庫の1つはリノベーションされて、カフェ兼土産物店「澎湃館(ほうはいかん)」になっていました。もう少しゆっくり見たかったのですが、ここで時間切れ。ボランティアさんや他の参加者さんに別れを告げて、バスで呉駅に戻りました。
呉駅に戻ると、広島駅に引き続きまたもや「ディスコ」の大きな看板が。呉は海軍の招致に成功した後、戦後は三菱重工や日本製鉄などの重工業の工場を誘致することで栄えてきた都市ですが、2023年9月末をめどに日本製鉄の工場が閉鎖されることが決まっています。今度は「ディスコ」などの半導体関連産業が工場を拓くかもしれないし、別の企業が誘致されるのかもしれない、と思うと俄然興味が湧きますね。
ボランティアさん等との会話から、彼らがいかに呉を愛しているか、海軍さんや誘致した企業を誇りに思っているかをひしひしと感じました。全体的にキリっと締まって整然とした雰囲気に包まれた人と街でした。ここに工場を作りたいと思う社長さんの気持ちが分かる気がします。
呉に別れを告げて広島駅に戻り、新幹線に乗って東京に戻りました。昼ご飯を食べそこなったので、広島駅で駅弁を購入。食べ終わったあとは眠気に襲われスヤスヤ。
自宅まで無事に帰り着きました。
自宅に荷物を置いたあと、ジャズの生演奏を聴きにライブハウスに行き、出演メンバーの若いお兄さんを連れ出して焼きとん屋で一杯飲んで、この日を終えました。
あー、遊んだ!久しぶりの長い旅でした。コロナの第6派が来てしまい、全国でも感染者が1万人を超えたので、当分こういう長旅は無理でしょう。12月初旬に思い切って旅行に出て、本当によかったです。
では、また!
旅行記(8)-広島→呉:戦艦大和ミュージアム&夕呉クルーズ
こんにちは。にこいちです。旅行記(8)を続けます。
【8日目:広島→呉】
朝、ホテルをチェックアウトして、広島電鉄に乗り広島駅へ。大きな「ディスコ」(証券コード6146)の看板を見ながら、呉線で呉駅に向かいます。ライナーに乗ればよかったのですが、待つのが面倒臭くて、鈍行に乗りました。外の景色を見ながらのんびり乗り鉄を楽しみました。
昼ころに呉駅に到着し、ホテルに荷物を置かせてもらい、出発。フェリー乗り場兼待合所に向かい、夕呉クルーズのチケットを購入しました。
その後、大和ミュージアムへ。呉の歴史、戦艦大和の歴史、戦闘機や特攻兵器の展示などを見学。地方の小さい漁村だった呉が軍事都市に指定されて以降、飛躍的に発展してきた様子を学んだり、戦艦大和の模型の大きさに驚いたり。
中でも心に残ったのは、特攻兵器「回天」(魚雷)の展示と「回天」に乗る直前の乗組員の声の録音。いかにも軍国少年っぽい(北朝鮮のアナウンサーのような)固い口調なのかな?と思いましたが、そうではなく、現代の若者と何ら変わりない柔らかい語り口。このような若者が100人以上「回天」での特攻で亡くなったそうです。しかも、“若い命を大切にすることをモットーとしていた海軍は何度も特攻を止めたのに、若者が特攻を強く主張してそれを止めることができなかった”というような説明があり、暗澹としました。誰がいつどういうことを主張・議論して、回天での特攻に至ったかの説明もなかったですし、若者がそういう主張をせざるをえない環境を作ったのは、明らかに大人の責任ではないのでしょうか。責任のがれっぽくて、私にはあまり納得がいかない説明でした。
戦艦大和の大きな模型は、男性の皆さんに大変人気でしたが、日本海軍最大の失敗(戦闘機&空母の時代なのに、技術の発展による戦術の変化を読み間違えて、戦闘機に狙われやすい大きな戦艦を作ってしまった)なのに、かっこいい存在として崇められている感覚というのが、自分にはよく分かんなかったです。むしろ、自分としては、この悲劇を繰り返さないためにはどうすればよかったか、という検証のほうが見たかったですね。
給料明細表の項目を書き出すと以下のとおり。
・収入:支給総額、諸加給、定期賞与、退職手当
・控除金額:共済掛金、保険掛金、購買所、貸付部、海士会、貯金、治療費、
倶楽部費、全物品代、同窓会費、住宅資金
・交付金額
収入-控除金額=交付金額 なのでしょう。
収入はもっと階層別(大将手当とか少将手当とか)に項目が分かれているのかと思っていましたがそうではありませんでした。控除金額の共済掛金と保険掛金はどう違うのかな?これはよく分かりません。怪我が絶えない職場でしょうに、治療費を差し引かれるのはつらいなあと思います。貸付部があるのは、前借りする人が多かったからなのかな。貯金という項目があるのも面白い。個人で銀行に預けるより職場で貯金する人が多かったのでしょうかね。
海軍水平生活漫画絵はがきが面白かった。水兵さんたちの生活がイキイキと描かれています。戦前から漫画は人気だったのですね。
「初めて着る水兵服 僕もいよいよ水平さんだ」「丁度いいであります」「今日から立派な海軍軍人だぞ」「一生懸命がんばるであります」
「あーあ 今朝の御飯はばかにうまかった」「うーえ もう腹いっぱいだ」「うーん 胸につかえ(へ)た」「あんまりあわててがつがつ食べるからだよ」
絵はがきは10枚以上あったと思いますが、いずれも力作でした。水兵さんのご家族はこういう絵はがきを入手して、ご家族がどういう生活をされているか、案じていらしたのでしょうね。是非、直接ご覧になることをお勧めします。
給料明細表の項目を書き出すと以下のとおり。
・支給額:総額、諸加給計、(内)家族手当、(同)定期賞与、(同)退職手当
・控除額:所得税、共済掛金、保険掛金、舎費、購買代金、貸付金、住宅資金、治療費
国民貯金、郵便貯金、団体保険、諸会費、家庭送金
・交付額
支給額-控除額=交付額、なのでしょう。
水兵さんの給料明細表にはなかった家族手当が入っています。この当時は女性が働くと家族手当が付いていたんですね。ちょっと不思議です。こちらにも、共済掛金、保険掛金、団体保険など、保険ぽい項目が一杯あります。どういう違いなのか、知りたいです。水兵さんの給料明細表にはなかった家庭送金などという項目もあります。この控除項目を全部引かれていたら、手取りが残らない気もします。
午後2時30分過ぎまで見学してお腹が空いたので、呉ハイカラ食堂に行きました。
カレーはあまり辛くなくてマイルドな味。冷麺はほぼ冷やし中華ですが、味はおいしかったです。
港へ戻って、夕呉クルーズに乗りました。海上自衛隊の護衛艦や潜水艦などの近くをクルーズし、夕陽も見られるというものです。所要時間約35分、大人1名1500円。
海上自衛隊退院のOBの方が軽妙な語り口で色々船の紹介をしてくださり、乗船したお客さんから笑い声が上がることもしばしば。一番の見どころは、潜水艦の上に乗組員の方が出てきて、敬礼をしたり、日没と同時にラッパを吹くところ。クルーズ船の乗客が手を振ると振り返してくださる乗組員の方もいらっしゃいました。この部分は全部動画で撮影したため、写真はありません。艦船に興味のある方は是非ご参加の上、自分の眼で楽しんでくださいませ。
クルーズ後にホテルでチェックインしてから、クルーズ船の海上自衛隊OBの方に勧められた居酒屋権三(ごんざ)に繰り出しました。人気店のため、30分位待って入店。ここも予約したほうが良さそうなお店です。入口も店の奥の方も、体格の良い若い男性が一杯。元気のよい声があふれています。未確認ですが、海上自衛隊隊員さんの行きつけのお店かもしれません。おかげで、刺し盛りや他の料理も盛りがよかったです。
8日目はこれで終わりです。
旅行記(7)-宮島・弥山
こんばんは。にこいちです。旅行記(7)を続けます。
【旅行記(7)-宮島・弥山】
朝、ホテルの部屋で朝食を食べてから、出発。広島電鉄で広島駅まで出て、山陽本線で宮島口駅まで出ます。そこからフェリーに乗り、宮島に渡りました。
フェリー乗り場を下りて参道に入ります。広島もかなり人出がありましたが、宮島もかなり人出がありました。家族連れ・子供連れが多かったかな。
嚴島神社についてがっくり。何と工事中で全体がすっぽり工事用資材で覆われています。うわー、知らなかった。
気を取り直して、厳島神社の後ろに立っている弥山登山に挑みました。とはいっても、傾斜に怖れをなして行きはロープウェイを利用w しかし、これは正解でした。乗ってみて初めて知りましたが、ロープウェイも2本を乗り継ぐほど登山道が急で長いのです。
12時位に山頂に着き、下るだけなら2時間もあれば余裕で下れるだろうと思っていましたが、大間違い。3時間強かかりました。お昼ご飯は持っていなかったので、ロープウェイの降り口の自販機で売っていたコアラのマーチが唯一のおやつw 買っておいて正解でした。
最後は脚がガクガクに震えるようになり、ヨロめきながら下山しました。思ったよりもすごくきつかった。高尾山のきついコースの2倍位に感じました。生きている間にもう1回来ることができるかな?次は、上り・下りともロープウェイになるかも・・・。
下山を終えて、あこがれのあなごめしにありつきました。が、味は期待ほどでは・・・。思ったよりもあっさりしたお味。東京で食べるあなごずしのほうがふわっと蒸し上がっていて脂がのっていておいしいと思います。
いったん宿に戻り、ここからイチとはいったん別行動。イチは、好きなジャズのライブコンサートを聴きにライブハウスに行きました。私は、ちきりんさんと木下斉さんのVoicyライブがあるというので、ビールとつまみを買ってホテルでのんびり。
思い思いに数時間を過ごし、イチがホテルに戻ってきてから、一緒に居酒屋「魚樽袋町支店」に出かけました。広島は日本酒がおいしくて、前日もこの日も色々飲みました。名前は何だか派手ですが「夜の帝王」がおいしかったな。辛口の「亀齢(キレイ)」も好みでした。
これで7日目はおしまい。今回の旅行で唯一、全身を使う体育会系な1日でした。
では、また!
旅行記(6)-博多→広島
こんにちは。にこいちです。今回の旅行記、マジに長くて申し訳ありません。漸く3分の2が終わったところ。もう少し続きます。
【6日目:博多→広島】
セブンイレブンで買ってきたアンドーナツを二人で分けて、朝ごはん終了。イチと夫婦で旅行するとき、朝ごはんはこんなふうにコンビニで買ってきたものでさくっと済ませることが多いです。安いし早く動けるし、グルメは昼と夜にとっておきたいので、これで十分なんです。
ホテルを出て、地下鉄で博多駅へ移動。博多駅から新幹線で広島に移動します。乗車時間1時間強、新幹線代が2人分で1万7140円。関東に住んでいると関西や九州・四国の都市間の距離がつかめなくて、博多・広島間は意外と遠いな、と感じました。
広島駅で広島電鉄1日乗車券を買い、広島電鉄でホテルに向かいます。ホテルに荷物を置かせてもらい、昼ごはんへGO。ガイドブックで選んだ、平和記念公園近くの有名お好み焼き屋さんに向かいました。お好み焼き「長田屋」さんです。
午前11時20分ころには到着したのですが(開店は午前11時)、店内は一杯且つ店外でも10数名待ち。修学旅行の中学生が店内及び行列をしていたのです。コロナ禍の合間に、修学旅行が復活していたのですね!よかった。店内と店外で合わせて1時間強待ちました。注文ができたのは昼12時30分過ぎ。大変な人気店で観光地にとても近く便利な場所ですので、余裕を持って早めに並ぶことをお勧めします。
久しぶりの広島風お好み焼きでテンション上がりました。その昔(30年ほど前)、下北沢に「門前(かどまえ)」、「広喜(ひろき)」、「おたふく」という3件の広島風お好み焼き屋さんがあって、結婚前のイチと一緒によく通ったものです。もち入りのお好み焼きがあった「門前」の味が一番好きだったな。あまりに2人でうまいうまいと盛り上がって食べていたせいか、ローカルのTV局に食べている様子を撮影されたことがありますw 3店とも閉店してしまったけど、スタッフの皆さんはお元気だといいなあ。
レトロな昭和の雰囲気の中、長田屋のお好み焼きをおいしく頂きました。ボリュームも満点で、店のあちこちにいる中学生も楽し気な様子。若いころからこんなにおいしいものを食べられる皆さんが羨ましかったです。きっといい想い出になるでしょう。
長田屋を後にして、広島平和記念資料館に向かいました。30年以上前に、一度この資料館を見に来たことがあります。2019年に大幅なリニューアルが行われたというので、再度見学したくて、ずっと機会をうかがっていました。
今回のリニューアルでは、被爆再現人形が無くなり、遺品や被爆者の方の写真・ストーリーを中心に紹介する展示に変わりました。被爆再現人形は視覚に直接的に被爆直後の悲惨さを訴えかけてくる感じ(漫画「はだしのゲン」的)だったのに対し、今回はもう少し間接的・長期的な視点で悲しみを訴えかけてくる展示です。例えば、私が印象に残ったのは、子供のいる家庭で父親が被爆して、家族が困窮・崩壊していくありさまを時系列のシリーズものの写真で紹介する展示でした。父親はいろいろな病院を転々としても、身体の具合が全く改善されず苦しみます。インタビュアーから「子供達は(家に不在だが)どこに行っているのか?」と質問され、「たぶん海に貝を取りに行っているのだろう(=それしか食料がない)」と答える父親。子供達が支えても支えても状況は改善されず、家庭は崩壊していきます。
また、今回の新しい展示でびっくりしたのは、原爆投下前の街のにぎわい(平和記念公園の当たりの街並み)が動画で残されていて、繰り返し上映されていたこと。アメリカ人が撮影していたものだそうです。これだけ栄えていた街が一瞬で焼け野原になり、雑踏を歩いていた方達の多くが亡くなったであろうと思うと、言葉がありません。
戦争が国民に与える長期に渡る苦しみを思うと、心が痛みます。なぜ世界から戦争がなくならないのでしょうね。戦争を起こしたがる人達はこういう悲惨な現実を知ってほしいです。
広島城を見ようと広島電鉄で移動しましたが、午後4時30分までに入場しなければならないところ、到着したのが午後4時35分。泣く泣く見学をあきらめてホテルに戻りました。
ホテルで一休みしてから、ホテル近くの牡蠣料理店「ミルキー鉄男のかき小屋袋町店」に行きました。んが、午後8時過ぎでもお客様でいっぱい。「遅くても良ければ席が空いたら携帯で呼び出しますよ」と店員さんに言って頂き、ありがたくそうして頂くことに。アーケード街をプラプラ歩いて時間をつぶし、午後9時近くに入店できました。地元のお客さんで大変に混雑している人気店です。旅行者は事前予約していきましょう。
牡蠣料理がどれもおいしい。特に名物の牡蠣のガンガン焼き(鉄の缶の中で殻付き牡蠣を蒸し焼きにした料理だと思う・・・たぶん)は、貝殻の中に汁気たっぷりの大振りの身が入っていて、塩加減も絶妙。牡蠣の概念が変わる位、おいしいです。これは絶対東京で味わえない、牡蠣の原産地だからこそ味わえる味。広島に住んでいたら、絶対リピートする!ってくらい感動的なお味でした。
大満足でホテルに戻りました。あー、おいしかった!
こういうおいしいものがしみじみ味わえるのも、世の中が平和だからこそです。
平和大事、戦争反対!
今回見た広島の街は明るくてきれいで、若い男女が楽しそうにざわめきながらアーケード街を行き来する姿が印象的でした。太平洋側の港町特有の明るさというのかな、今回の旅行で一番「自由」で「若い」「平等」な雰囲気を感じました。
旅行記(5)の追加-松本清張さんの言葉と評論
にこいちです。
松本清張記念館で、おおこれは!と思った清張さんのお言葉や評論があったので、自分のメモ帳に記録しました。その中でもよかったなと思うものを抜粋して紹介します。
最後のインタビューより
Q:その飽くなき好奇心の根源にあるものは何ですか?
A:「疑い」だね。・・・体制に対しても疑うし、学会的に偉い人が行ったことでも鵜呑みにせずに疑ってかかるが、もう少し加えて言うと、歴史にしても社会現象にしても、上から見ないで底辺から見上げること(週刊プレイボーイ平成4年4月7日号)
社会派・松本清張さんらしいお言葉です。歴史論でも独自の見解をお持ちだったようで、周囲の人、例えばご家族や編集者は大変だったんじゃないかな、と思わされる部分もありました。
「清張の見た中国の風景」より
松本清張は、若い頃から、新聞記者にも、小説家にも、歴史家にもなりたかった。(①)成長は好奇心旺盛で何にでも興味を持つ作家の眼と、いつでも「今、この場所」の事実を冷徹に切り取る〈ジャーナリスト(カメラ)〉の眼と、どこでも「現在と過去との対話(=歴史②)ができる〈歴史家の眼〉の、3つの眼を持って生まれたのであろう。そして生涯たゆまぬ努力によってその眼力を鍛えつづけ、さらに領域を超えて雄大な清張山脈を造り上げたのであった。(①藤井康栄「松本清張の残像」2002年12月20日、文藝春秋 ②E.H.カー「歴史とは何か」)
記念館2階には、原稿の推敲の過程も残されていて、例えば「古代探求」は6校まで推敲された記録が残っていました。クオリティを維持するのに大変厳しい方だった。これが「たゆまぬ努力」なんだろうな、と思いました。
なお、万年筆はモンブランを愛用されていたそう。文具への拘りも強かったのでしょうね。
松本清張記念館は、清張さんへの愛にあふれる素晴らしい記念館でした。
展示物についている説明文はいずれもきれいで的確な文章で、それ自体を署名入りの著作物として販売してもいいのではないかと思えるレベル。
これからも記念館として維持されてたくさんの人の眼にふれるといいなと思っています。特に、作家志望、ジャーナリスト志望、編集者志望の人には見てほしいな。