旅行記(5)-小倉→博多
こんばんは、にこいちです。旅行記の続きを行きましょう。
【5日目:小倉→博多】
ホテルの部屋で朝ごはんのパンを食べて、荷物をホテルに置かせてもらい、出発!前日、ホテルにチェックインする際に見つけたちらしに惹かれて、松本清張記念館に行きました。記念館は小倉城と同じ敷地内にあります。
松本清張さんは、1909年生の小説家。広島で生まれたらしいですが、出生届は小倉で出されたとのこと。幼少期は下関壇ノ浦、小倉に移り住んだようですが、父親が借金取りに追われる極貧の生活で、記念館でもこのころのことはほとんど記録が残っていません。高等小学校を卒業した後(今で言うと中卒位)、印刷所などで印刷工として働きます。1936年に見合い結婚し、次々と子供が生まれるなか、ポスターのデザインなどを手掛けるようになります。また、終戦直前の2年弱を韓国の竜山、井邑で衛生兵として過ごします。1950年ころから小説を書き始め、1951年に「西郷札」が入選して以降、作家としての活動が中心になります。ずいぶんと遅咲きの作家だったようです(42歳で入選)。1953年に東京に転勤になり、杉並区荻窪、練馬区石神井などに転居。1958年に「点と線」「眼の壁」を発表。1961年に杉並区高井戸に居を構え、「砂の器」「けものみち」などのヒット作を次々に世に出しました。
記念館には、杉並区高井戸に建てた自宅の一部が実物大で再現されていて、すごく見ごたえがあります。地図及び写真で見ると、敷地のすぐそばを井の頭線が走っており、電車の音が相当うるさかったのではないかと思いますが、清張さんは気に入っておられたようです。再現されているのは、玄関、応接間、書庫及び書斎で、応接間の絵や置物なども当時あったものが置いてあった場所のとおりに再現されているとのこと。再現された部屋の中には入れませんが、外から見るだけでもすごい臨場感で、今にも清張さんがふらっと現れそうな雰囲気です。
また、自宅の再現の前に置かれているモニターでは、清張さんを担当されていた何人もの編集者(10人超)がインタビューに答えて、清張さんがどういう方だったかを語っていらしたのが面白かったです。清張さんは、新人編集者は応接間に通してくれず何回も通ううちに漸く応接間に通してくれるようになったとか、原稿を書くと編集者に「面白かったか?」と聞いて反応を知りたがり「面白かったです」と言わないと不機嫌にはなるが原稿は書き直してくれたとか、滅多に人を褒めないけれど原稿を書くのに必要な資料を集めて持って行くと「よくやった」とほめてくれたとか、徹夜明けのドテラ姿で階段を下りて現れたとか、他の小説家は遊びたがるが自分は書くものがありすぎて時間がないから遊ばないと語ったなど。親しい編集者だからこそ語りえる作家「松本清張」の姿がそこにはありました。
記念館2階に上がると、再現された自宅2階建物の清張さんの書斎(執筆部屋)や書庫を覗き見ることができます。机の上に原稿用紙が広げられていたり、文具が置いてあったり、こんな環境で執筆活動をされていたんだという状況を事細かに知ることができます。
また、清張さんの本棚に並べられている本の背表紙がコピーされていて、どんな本が並んでいたかも見ることができます。見たところ、晩年に凝っておられたという古代史の本が多かったですね。
作品を執筆するのに、手触りなどを確認されたいということで、土器なども集めておられたとのこと。昔の作家のスケールの大きさを感じます。
地下に下りて、企画展「松本清張と東アジア」も見ました。清張さんは海外に行きたがっていたので、韓国に派遣された際には、衛生兵としての地位をちゃっかり利用して、病院などへのお使いにかこつけて市内散策を楽しまれたり、ということもあったようです。企画展では、敗戦後に兵士が韓国で荷車に荷物を載せて退却する様子の動画が放映されていて、この当時のこのような動画が残っているということに驚きました。
記念館の見学を終えた後は、小倉城へ。この地を治めていた毛利氏の肖像画や、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘や、武蔵の「五輪書」についての展示などがありました。
お腹が空いたところで、旦過(だんか)市場へ。そこそこ人出があって賑わっていました。
お鮨が食べたいなーとうろうろしていると、こんな看板が!→「市場寿し」 やる気があるんだかないんだかよく分からない名前ですw でもね、ネタが新鮮で脂がのっていて歯ごたえもよく、めっちゃくちゃおいしい!しかもお安い。オーナーさんは若い男性(たぶん30歳位)ですが、腕と舌は確かです。小倉に行く方は絶対に行きましょう!
損はさせませんぜ~。
満足したところで小倉のホテルに戻り、預けてあった荷物をピックアップして、小倉駅へ。新幹線で博多まで移動しました。博多駅からバスに乗り、中洲川端駅近くのホテルへ。少し休んでから、屋台街に繰り出しました。
川沿いの屋台、大通り沿いの屋台を一通り周り、おいしそうなところを見繕います。この日は平日だったためか屋台が少なくて、全部で20~30件位。
最初の1件は、ガイドブックにも乗っていた「武ちゃん」。かなりの人気店で、並ぶときは数時間待ちとかあったそうですが、コロナ禍のためか人は少なく、呼び込みのお兄さんが客を呼び込んでいる状態。そのため、女将さんと息子さんともお話をすることができました。屋台を組み立てるのに1時間半、バラすのにも1時間半かかり、お金を稼ぐのは本当に大変なのよとか、女将さんも独身時代に屋台に食べに来ていたが、まさか自分が屋台をやることになるとは思わなかったとか、有名タレントや政治家も食べにくるというお話など。屋台の天井裏には数々のお客さんの名刺が挟んであって某テレビ局のディレクターのお名前などもありました。
どれもおいしいです。が、結構お値段はかかり、2人分でトータル3800円(酒含む)。屋台をはしごしたい人は軍資金をたっぷり準備してから行きましょうね。
お腹が少し膨らんだところで、二件目の屋台に行くことに。
今度は「ともちゃん」です。
ラーメンは、見た目に反してあっさり味。すごく食べやすかったです。
お酒やぼんじり焼きなども頼んで、お値段2500円でした。
屋台巡りのために街を歩いてみたところ、すごく多かったのが「無料案内所」。我々が歩いた1km四方に10件位はありました。200~300m歩くと次の案内所がある感じ。お客さんが少なくて、案内所には暇そうな顔をした担当者っぽい中年男性が所在なさげにたたずんでいました。新宿歌舞伎町でもあんなにたくさんの「無料案内所」はないと思う。女の子のいる店に入るためにどれだけの案内所の費用(場所代、人件費)が上乗せされているのかな。その分女の子の手取りが少なくなりそうで、気の毒な感じがしますが、どうなのでしょう・・・。
あと、博多は男性同士の飲みが多くて、女性連れや女性同士の飲みはあまり見かけませんでした。女性があまりお酒を飲まない土地柄なのかもしれないと思いました。
5日目はここでおしまいです。
では、また!
旅行記(4)-下関→門司→小倉
皆様、こんにちは。にこいちです。
昨日の東京は大雪。久しぶりの雪景色で嬉しい気持ちもする反面、寒いし道路は凍結するしで、家の中に閉じこもっています。
オミクロン株も蔓延してきて、沖縄・山口・広島にまん延防止重点措置が決定されましたね。私が今回旅行してきた先が二つも含まれていて(山口&広島)、驚いています。1か月前に旅行に行ったときは、山口はそれほどひと気がなかったのだけれど、年末年始で感染が拡大したということでしょうか。皆様のご無事をお祈りしています。
さて、旅行記の続きを行きます。
【4日目:下関→門司→小倉】
スーパーで買ってきたパンをホテルの部屋で食べて、朝食終了。ホテルをチェックアウトし、門司港行きのフェリーに乗るためにバスで港へ向かいます。バス停の並び方がよく分からずまごまごしていたら、親切なおじさん3人が教えてくれ、無事バスに乗れました。その節はお世話になりました。ありがとうございます。
下関港近くのバス停に到着。港に併設されている唐戸市場に行ってみたかったのですが、スーツケースはあるし時間もないしで断念。今度行く機会があったら是非行ってみたい。
木下斉さんがVoicyで紹介されていたように、門司港駅の駅舎及び周辺にはレトロ建築がたくさんあり、観光名所になっています。門司港駅の前でも、高校生・大学生のグループが何組か、写真を撮っていました。門司港駅の左側には、バナナの叩き売り発祥の地の説明文や碑がありました。大正から昭和にかけてさぞかし門司港は活気にあふれた町だったのでしょう。
スーツケースやリュックを門司港駅のコインロッカーに入れて、しばし駅舎の中をうろうろ。中にもレトロなものがあふれています。
駅舎を出て右斜め前に向かって道路を渡ったところにある、旧門司三井倶楽部の建物。三井倶楽部の2階は見学できます(有料)。階段上がった手前にはアインシュタイン夫妻が来日した際に泊まった部屋が再現されています。
その部屋を通り抜けた奥には、「放浪記」で有名な作家の林芙美子に関するものが展示されている部屋がいくつかありました(撮影不可)。林芙美子さんは門司で生まれたという説があるためです。
三井倶楽部を見学し終わったあとは、旧大阪三井商船三井船舶株式会社門司支店の建物に行きました。1階には、漫画家・わたせせいぞうさんのギャラリーがあり、多くの作品が展示されていました。わたせせいぞうさんは小倉市のご出身。昔、モーニングで「ハートカクテル」や「菜」を読んでいたことを懐かしく思い出しながら見学。今見ても、美しい配色でおしゃれな絵。わたせさんの繊細な感性をはぐくんだのが北九州の地かと思うと、じーんとします。
見学を終えて、近くのカレー屋さん(インド料理ニューナンダン門司港店)に飛び込みました。門司名物焼きカレーを食べましたが、味は普通。もう少し辛いほうがよかったかな?ビリヤニは炒ったカシューナッツが香ばしくておいしかったです。
お腹も一杯になったところで、見学再開。大連友好記念館は外からの見学のみ。中は民間のレストランです。
門司港レトロ展望室にも行きました。「壇ノ浦の戦い」(1185年)で有名な壇ノ浦が見えました。平氏と源氏が戦って平氏が滅亡した戦いです。この小高い丘の崖が1000年前は戦場だったのね、と思うと感慨深いです。
展望台を出て次に向かったのが、門司電気通信レトロ館。電信・電話に関する古い機器類等が展示されています。電話機、交換機、携帯電話、公衆電話など。通信マニアにはたまらないんじゃないかな。古い電話帳(といっても、数十人の名前と番号がA4・1枚の紙にまとめられたもの)のコピーを頂けます。あの渋沢栄一さんや渋沢喜作さんのお名前も載っています。
給料袋も展示されていました。項目を書き出すと以下のとおり。
・給与支払総額:基本給支給額、扶養手当、勤務地手当、特殊作業手当、有技者手当、超過勤務手当
・控除額:共済組合(短期掛金、長期掛金)、国庫納金、所得税、市町村民税、共済掛済金、宿舎費、労働用物代金、相互扶助会費、組合費、(預)(住)
・厚生係扱引去額:簡易保険、第一生命、朝日生命、労働金庫、山形屋、銀座堂、購買(電話局、電報局、通信部)、かめやウサギ屋、映画サークル、同窓会費、牛乳、定期券、カメラ、開文堂、囲碁会、クリーニング、会食
・積立貯金
・端数貯金
給与支払総額-控除額-厚生係扱引去額-積立貯金-端数貯金=現金支給額となっていたと思われます。また、共済というのが今の年金的なものかと思います。簡易保険、第一生命、朝日生命など保険会社の名前が給料袋に印刷されているのが驚きです。いかにこれらの会社と電信電話公社との関係が深かったかを示す貴重な資料じゃないかしら。日本人が保険漬けになっているのはこういう背景があったからではないかなと思いました。山形屋・銀座堂・ウサギ屋など、一般の商店若しくは百貨店ぽい名前が印字されているのも興味深いです。電電公社お抱え商店で、社員はツケで買い物ができたということなのかなあ。エリート社員が肩で風を切って威勢よく歩く姿が目に浮かびます。積立貯金や端数貯金もできますが、項目は最後。今で言う「先取貯蓄」は、やりにくい構成になっているように見えます。
ここまでいろいろ会社にお金をコントロールされていると、今より社畜度は高かったんじゃないかな。厚生係に聞けば、毎月誰が何にいくらお金を使っているかが丸分かりだもんね。こわいなあ。
てなことを思いつつ、電気通信レトロ館をあとにし、九州鉄道記念館へ。
門司の市場にも立ち寄りましたが、ほとんどシャッターが閉まっていて、ひと気なし。あまりに侘しいので写真も撮りませんでした。また、旧門司税関や三宜楼という有名な建物や関門海峡ミュージアムも見たけど、あまり面白くなかったので割愛します。
さて、門司港駅でコインロッカーから荷物を出して、電車で小倉駅へ移動。
ホテルにチェックインして一休みしてから、木下斉さんお勧めの鰻屋「田舎庵」へせいろ蒸し(鰻重を蒸したもの)を食べに行きました。
せいろ蒸しは初めて食べたけど、要するに上から下までめっちゃ蒸されて熱いほかほかの鰻重w 舌を火傷しないように気を付けつつ食しました。
お隣の席は、品の良い初老の男性とうら若き女性の組み合わせ。男性がお酒をお誘いしたのに、女性から「今日は車で来ているから」ときっぱりと断られて残念そうにされていたので、心の中でエールを送りつつ、店を後にしました。
4日目はここでおしまい。いったん切ります。
旅行記(3)-仙崎・長門湯本→下関
皆様、あけましておめでとうございます。にこいちです。
今年も宜しくお願いいたします。
だいぶ間が空きましたが、旅行記の続きを書きます。
【3日目:仙崎・長門湯本→下関】
朝起きて、airbnbのオーナーさんとお話。元は鉄道マンだったがご両親の介護のため早期リタイアし、家を購入。介護がひと段落ついたところで購入した家でairbnbを始めたとのこと。絵を描いたり、ピアノやギターを独習したり、とお一人の生活を楽しまれているご様子。ギターを何曲か聞かせて頂いたところで別れを告げて、車で出発。
またもや、うどん屋どんどんにお邪魔し、モーニングうどんを堪能。
その後、車で移動。萩の街道沿いには、きちんと選定された松がいっぱい植わっています。植木屋さんが活躍しそうな土地柄。
木下斉さんお勧めの、仙崎の金子みすず記念館に行きました。
金子みすずは、大正末期から昭和初期にかけて活躍した詩人(1903年生)。
仙崎はクジラ漁・鰯漁で栄えていた漁港で、みすずは町で唯一の書店の娘さんでした。兄と弟がいますが、弟は幼少時に跡取りとして親戚(叔父)の家に預けられてしまいます。
成績優秀で女学校に通っていたみすずでしたが、その頃から弟が仙崎に遊びに来るようになり、兄・みすず・弟で文学談義を楽しみました。そして、弟はみすずを(姉と知らずに)慕うようになってしまいます。みすずは苦しんだあげく、叔父の店の番頭格だった男性と結婚することを決めます。弟は結婚に反対し涙の談判をしに行きますが、みすずに真実を告げられ、薄々そうではないかと思っていた真実(=二人が実の姉弟であること)を知ることに。弟はショックを受けたのでしょう。そのころの日記(注:手紙だったかも。記憶が定かでなくて申し訳ありません)に、”僕はみすずと同じ位教養があり、しかしみすずよりも器量良しの女性と結婚したい”という悔し紛れの文章を書き残しています。
弟は脚本家になる夢を実現するため上京します。他方、みすずは下関に行き、夫の仕事を手伝いますが、この夫が女癖が悪く、子供を1人産んだあとも放蕩が止まず、みすずは苦しみます。しかもこの夫は、みすずの詩作や他の詩人との交流を禁じてしまいます。みすずは夫と離婚することにしましたが、夫は当初、子の親権をみすずに渡すと話していたはずだったのに約束を破り、自分のものにしようと強行します。みすずは絶望し、子は自分の母が育てることを懇願する遺書を残して自殺します。
みすずの残した詩作は小さなノート3冊分で、弟はそのノートを大切に保管していました。矢崎節夫氏(詩人、金子みすず記念館の館長)がみすずの遺稿を探していたところ、弟が保管していることを発見し、1984年に広く出版されることになりました。
この弟は、上山雅輔(かみやま がすけ)さんという劇作家です。妻と一緒に東京都杉並区で劇団若草を立ち上げています。矢崎節夫氏とJR西荻窪駅の近くにある有名ケーキ店「こけし屋」で会って話をした、という記録が残っています。上山さんは杉並区善福寺のお住まいで亡くなりました。
金子みすず記念館には、以上のようなみすずの歴史に関する資料、手紙などが数多くあるほか、みすずの詩も様々な形で展示されています。美術的な要素を含みますので、これは是非現地でご覧ください。
なお、個人的に面白かったのは、みすずの女学生時代のころに使われていた教科書が展示されていたこと。正確な題は忘れましたが、家計簿の付け方の授業があったようで、そのような題の教科書がありました。また、英語と裁縫が選択授業だったようです。女学校はかなり実学寄りの授業をしていたのですね。
2時間位かけてじっくり見学したあと、車で長門湯本へ移動。木下斉さんお勧めの温泉「温湯(おんとう)」(公共浴場)に行きました。温湯はできたばかりでとてもきれいな温泉。中の脱衣所などもグレーを基調としたクールな造りになっています。
温泉を堪能したあと、萩の喫茶店「蔵」のマスターに勧められた角島大橋を見に行くことに。海の中を島まで渡る橋を走っていると、海の上を飛んでいる気分でとても爽快でした。若い人のデートスポットになっている様子でした。
すきっ腹を抱えて下関に移動。途中、貼ってあった政治家のポスターは全て元首相の安倍晋三氏。他にも山口県出身の政治家はたくさんいらっしゃるでしょうに、安倍氏の絶大なる人気を感じました。
午後5時ころに下関に到着。レンタカーを返して、宿で一休みしてから、ふぐを食べに行きました。これも木下斉さんお勧めの「春帆楼」。本家はめっちゃ高いので、下関大丸店へ。「期間限定白子付ふく会席」(要予約)というのを頼んでみました。1人前6600円(税込)。刺身、鍋など色々おいしかったですが、最大のお目当ての白子はあっさりしたふわふわの味でやや拍子抜け。百貨店が午後8時閉店のためか、午後7時30分ころになるとデッキブラシで床をこする音が店内に響き渡っていたりして、あまり寛げなかったのが残念。こちらに行かれる際には早めの入店がお勧めです。
以上で、旅行記3日目はおしまい。今年はもう少し連続投稿できるようがんばります。
旅行記(2)-萩市内&周辺
皆様、こんにちは。にこいちです。旅行記(2)を書きます。
【2日目:萩市内】
朝起きて、菓子パンを齧りながら、airbnbのオーナーと四方山話をしました。オーナーが独学で練習をされているという電子ピアノを聴かせてもらってから、出発。
まずは、前日に入り損ねた東光寺へ。
この東光寺の裏手にある毛利家の墓は、手前に何百もの灯篭があって、滅茶苦茶迫力&雰囲気があります。「THE毛利家」のご威光って感じで映画のワンシーンにも使えそう。外国人が見たらウケるんじゃないかな?
次に、東光寺近くにある伊藤博文別邸に行きました。併設されている旧宅は修理のため見られず、残念。
その後、城下町エリアへ移動。
萩藩御用商人・菊屋家住宅、高杉晋作誕生地(建物外観のみ)、蘭学者・青木周弼旧宅、木戸孝允旧宅、呉服商・酒造業の旧久保田家住宅を見て回りました。
菊屋家、久保田家のおうちは絢爛豪華。でも、商人は武家よりも身分が下ということで、お殿様が通る道に面している部屋はお殿様を見降ろさないよう天井が低くなっていたり、武家をお招きする部屋だけ天井が高くなっていたり。また、武家の中でもお殿様に近い位の高い武士はお城に近い場所に住んで敷地も広かった。
階級社会は敷地の場所や家の構造さえ変えてしまいます。さぞかし住みにくい世の中だったでしょうね。
お腹が空いたため、午後2時過ぎに喫茶店「蔵」に入り、私はカレー、イチはオムライスを食べました。蔵のマスターが昔勤め人だったときに、研修で日光江戸村に行かされて侍の恰好で入口で客引きをさせられ、それで人生が変わったという話が面白かった。(どう変わったのか聞いてみたかったなあ)
お昼ご飯を食べたあとは、明倫館に行きました。明倫館は、萩藩の中心を担う人物を輩出した学校。明治維新以降も学校として栄えました。色々な展示物が展示してあります。
明倫館でじっくり展示物を見ていたら、時間が足りなくなってしまい、萩焼会館(午後5時で閉まる)には入れませんでした。どうして、どこもかしこも午後5時で閉まってしまうのだろう。もう少し遅くまで開けてくれるところがあるといいのに。
悔しく思いつつも、近くの萩反射炉へ。
宿に戻りお風呂を浴びて、夕飯を食べに出かけました。今日の夕飯はイチがインターネットで選んだ居酒屋「こづち」。真っ暗な道をトコトコ30分弱歩いて店に向かいました。
こづちには、醤油も甘口と辛口が2種類あり、我々は辛口を頂きました。2種類を用意してくださる気配りが嬉しかったです。
店内は20~40代位の男性陣が何グループかいらしてなかなかにぎやかでした。漁師さんかな?皆体格がよくて賑やかでした。
寒い中を頑張って宿に帰り、昼間おやつに買ったぷりん亭のプリンをパクり。萩で若い女性を見かけたのは、このぷりん亭だけでした。萩にはあまり若い女性がいないのか、それとも専業主婦であまり外には出てこないのかしら。
あー、満足♪ 2日目はこれで終わりです。
では、また!
旅行記(1)-東京→秋芳洞→萩
こんにちは。にこいちです。
コロナ禍の合間を縫って、国内旅行に行ってきました。もともと広島に行きたいなと思っていたのですが、地域再生家・木下斉さんのVoicy(音声配信)を聞いて、萩・長門湯本や下関・門司・小倉にも行きたくなりました。ついでに、福岡の屋台というものも試してみたくなりました。
そこで、東京→萩→仙崎→長門湯本→下関→門司→小倉→博多→広島→呉→東京という8泊9日の長期旅行をしてきましたので、ここで記録しておきたいと思います。何回かに分けて書きます。
ちなみに、私が聞いた木下さんのVoicyはこちら。
・2021/11/7 #0090 萩、長門湯本を楽しむ方法
・2021/11/9 #0092 下関、門司港、小倉で感じる近代産業発展とまちの変化
これらのVoicyを聞いて面白そうなところは全部メモって、今回の旅行計画を立てました。
早朝4時過ぎに起き、7時25分発のANA便で羽田(東京)から山口宇部空港に移動。
山口宇部空港でレンタカーを借りて、イチ(旦那)の運転で秋芳洞に移動しました。到着したのは午前11時ころ。オフシーズンのためか、商店街は閑散とし、開いているお店はほとんどありませんでした。
冒険物語の好きだった私の小学生のころからのあこがれの場所・秋芳洞に、50代半ばで漸く来れて感激!鍾乳洞は想像していたよりもだいぶ天井が高くて広かったです。洞窟内の温度は17度位で外気よりだいぶ暖かく感じます。洞窟というと夏に避暑に行くところというイメージがありましたが、秋冬に行くにも結構いいところかもしれません。
再び車で萩に移動。秋芳洞から1時間位で宿につきました。宿はairbnbです。荷物を置いて、オーナーさんに昼ご飯によさそうなお店をうかがって、早速出発。宿からほど近い、うどん屋どんどんです。
うどんはしこしこ、肉は甘辛く煮てあって、ボリューム感があり、とてもおいしい。肉うどんは500円で、他にも色々メニューがあります。イチはかつ丼を頼んでいました。
食事後、松陰神社に移動。
写真にはありませんが、松陰神社宝物殿至誠館(遺書「留魂録」などが展示されている)、吉田松陰歴史館(吉田松陰の一生をろう人形で再現)などをじっくり見て回っていたら、それだけで午後4時30分を過ぎてしまいました。吉田松陰の肖像画は、死亡の直前にお弟子さんが描いた1枚(1種類)しか残っていませんが念のために同時に同じ絵を7,8枚描いておいたものであったこと、留魂録も同じ内容のものを2通準備したが1通は行方不明で1通は島流しにされたお弟子さんが着物に縫い付けて隠し持っていたものが後世に残された、などという話が心に残りました。松陰さんは、自らの死を覚悟し、それでもお弟子さんに遺志を伝えるために用意周到な準備をされていたんですね。
松陰神社見学後、この日見ようと思っていた東光寺にも行ってみましたが、着いたのが午後4時50分だったため(午後5時で閉まる)、この日は入るのをあきらめました。
夜は、airbnbのオーナーに勧められた居酒屋「ふるさと家族」へ行きました。
この他にもいろいろ頼み、どれもおいしかったのですが、お醤油がとても甘いのが食べ慣れなくてちょっとつらかったです。萩の周辺はお醤油が甘いのがデフォルトなんでしょうか・・・。
長くなってきたので、ここで切ります。
では、また!
書評「マンガ お金は寝かせて増やしなさい」
皆様、こんにちは。にこいちです。
今日は、2021年12月16日(昨日)に発売された水瀬ケンイチさんの「マンガ お金は寝かせて増やしなさい」の書評を書こうと思います。ここで、2017年12月18日に発売された(漫画でない)「お金は寝かせて増やしなさい」のことを「原作」、今回発売されたマンガを「マンガ版」と略称します。
1.マンガ版は原作の漫画を入れ替え、ストーリーも大幅に変更したものである
原作は全268頁でしたが、マンガ版は238頁とページ数が減りました。大きな構成の変化としては、原作は漫画が29頁に過ぎなかったのがマンガ版では82頁と、2.8倍に増えています。
また、原作では2004年に商社マンと結婚した本田未来さんという若い女性が主人公で、投資の神様が未来さんにインデックス投資を教えるというストーリーでした。これに対し、漫画版では、都内の小さなIT企業に勤めるOL花沢ヒナさんが職場の新人社員幾月ミヤコさんからインデックス投資を習い、その中でアクティブ投資派の阿久津部長との競争に参加させられることになり・・・というストーリーになっています。
原作の漫画は鐘崎裕太さんという漫画家さんが担当されていましたが、マンガ版ではシナリオ原作を鍋島焼太郎さん、作画を嬉野めぐみさんが担当されており、より漫画に力を入れて構成されたことが推測されます。
漫画の絵柄は個人の好みによるところが大きいとは思いますが、マンガ版のほうが若い女性受けするきれいな絵柄になっていると思います。
「マンガ」と銘打っているのだから、いっそのこと100%漫画にしてしまえばよかったのではないか?とも思いますが、何らかの事情で難しかったのでしょうか。「漫画 バビロン大富豪の教え」くらい振り切ってほぼ漫画オンリーにしてもよかったのではないか、と感じました。
2.マンガ版では「涙と苦労のインデックス投資家20年実践記」が4頁のコラムとなっている
原作では「涙と苦労のインデックス投資家15年実践記」は1章全部、36頁にわたって書かれていたのに対し、マンガ版では第6章「プロは絶対に教えてくれない『インデックス投資を続けるコツ』」の最後のコラム4頁となっています。
コラム中の折れ線グラフでは、水瀬さんの資産が大台に乗ったことが明らかにされています。
個人的には、2017年以降の実践記も楽しみにしていたため、拍子抜けでした。その年その年の新聞記事などと一緒に書かれていた原作の実践記は、当時どのような社会状況だったのか、その中でどう水瀬さんが感じたり考えたりして投資をされていたかが迫真性をもって書かれていて、とても好きだったのです。なので、もし「お金は寝かせて」の次回作があるとしたら、ここは追加して頂きたいなあと思います。
3.インデックス投資を勧める際の最初の1冊であることは間違いない
マンガ版のあとがきで、水瀬さんは「(原作の)対象読者像として想定していた20~30代の若者世代はあまり本を読まないいわゆる『活字離れ」が進んでいる」「どんなに入魂の本を書いても彼らには届かない」という苦悩を明らかにされています。そのため、出版社に漫画化を提案し続けられ、漸く実現したのがこの漫画版とのことです。
私は、ここ数年、水瀬さんの原作を家族や友人、近所の若者など金融リテラシーのあやしい人に送って読むよう勧めてきましたが、そもそもお金の話を活字で読むこと自体にアレルギーを持つ方は多かったです。水瀬さんの原作を第一に勧めていたのは、分かりやすく実践的であることはもちろん、漫画が含まれているので初心者にも親しみが持ちやすいと思ったからなのですが、それでもハードルは結構高かったみたいです。
例えば、5・6年前に蓄財に興味を持ったある高学歴の中高年の男性から「お金に関する面白い本はない?」と言われて、水瀬さんの原作はもちろん、「ウォール街のランダム・ウォーカー」や「敗者のゲーム」を渡したりしたのですが、彼は一向に読んだ節がありませんでした。なのに「漫画 バビロン大富豪の教え」だけは読んでくれたようなのです。
中高年でそうなのですから、20代・30代に活字の本を読んでもらうことはもっと難しいのでしょう。ご苦労をお察しいたします。マンガ版「お金は寝かせて増やしなさい」がより若い世代に広まるといいですね。
私も、これから「お金を寝かせて」を誰かにお渡しする機会があるなら、マンガ版のほうにしようと思います。
それでは、また。
年金問題について-その3 少子高齢化対策
こんにちは、にこいちです。
今日は、年金問題に関する少子高齢化対策について考えてみたいと思います。
1.田村正之さんによる「年金」の説明について
田村正之さんは、その著書の中で、
・年金とは「『老齢のリスク=長生きで老後資金が途絶えてしまうこと』『障害のリスク=病気やケガで働けなくなること』『死亡のリスク=一家の大黒柱が亡くなったときに遺族の生活を守ること』という人生の3大リスクから生活を守るための仕組み」(「人生100年時代の年金戦略」27頁)
・「保険では、『事故』が起きたときに保険金が支払われます。年金における事故の1番目は『長生き』です。長生きが事故というのも変な話ですが、老後資金が枯渇しかねないという意味では事故といえます(同29頁)。
・「『何歳まで生きるかわからない』ことは、老後資金を考えるうえではリスクでもあります。」(同29頁)
と説明しています。
2.長生きは「事故」か?
「事故」とは「思いがけず生じた悪い出来事。物事の正常な活動・進行を妨げる不慮の事態」(小学館精選版日本国語大辞典)をいいます。
病気や怪我、死亡は偶然の事情に左右されるので「事故」に該当することは分かるし納得しています。
しかし、「長生きで老後資金が枯渇すること」は「事故」なのでしょうか?
人が年をとって高齢者となることは自然の摂理であり、予測可能な事柄です。
また、年齢ごとの平均余命は公表されており、平均余命まで相当程度の確率で長生きすることもある程度予測しうる事柄です。
老後資金を持たせることも、ある程度事前にコントロール可能な事柄です。例えば、退職金や個人の蓄えを浪費すれば老後資金は早くに枯渇しますが、節約すれば枯渇しなくて済むように対応することができます。
そもそも「年金」は、国民を「老後資金が枯渇する」ほどに困窮してしまわないよう保護すればよいのであり、それを超えて高齢者の余裕のある生活まで保障する必要はないのではないでしょうか。
加えて、「年金」が賦課(仕送り)方式だというのであれば、そのときどきの仕送りをする側(主に若者)の収入が減るリスクは「年金保険」を受け取る側(主に高齢者)もリスクを負担するのが公平の観点から妥当なのではないでしょうか。既に年金の受給を開始しているからといって、若者の収入減リスクを高齢者が一方的に負担しないのは不公平であるように思います。
また、高齢者だからといって、常に「老後資金が枯渇する」とは限らないでしょう。高額の不動産収入などを得る人もおり、そういう人を「年金」で保護する必要はあるのでしょうか。
なお、平均余命を超えての長生きは、事前の予測を超えるので、これは「年金」により保護されるべき事柄(事故)と考えていいのではないかと思います。
3.結論(少子高齢化対策)
以上のように考えると、少子高齢化による年金問題に対処するには、平均余命と、若者や高齢者の収入状況とを考慮することが鍵になるように思われてきました。さしあたり思いつく対策は、例えば以下のようなものです。
①年金の支給開始時期をより遅らせるか、または、平均余命までは減額した金額としその後の年齢に応じて増額し一定の水準まで引き上げるようにする。
②そのときどきの若者の収入に応じて高齢者の年金受給額を増減する。
③年金以外の収入の多寡により高齢者の年金額を増減する。
それぞれ減額される人がいて異論も多いところとは思いますが、若い世代にのみ負担を強いる制度は持続可能性がないと思います。
それでは、また!