旅行記(5)-小倉→博多

こんばんは、にこいちです。旅行記の続きを行きましょう。

 

【5日目:小倉→博多】

ホテルの部屋で朝ごはんのパンを食べて、荷物をホテルに置かせてもらい、出発!前日、ホテルにチェックインする際に見つけたちらしに惹かれて、松本清張記念館に行きました。記念館は小倉城と同じ敷地内にあります。

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記念館の入り口

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企画展「松本清張と東アジア」の立て看板

松本清張さんは、1909年生の小説家。広島で生まれたらしいですが、出生届は小倉で出されたとのこと。幼少期は下関壇ノ浦、小倉に移り住んだようですが、父親が借金取りに追われる極貧の生活で、記念館でもこのころのことはほとんど記録が残っていません。高等小学校を卒業した後(今で言うと中卒位)、印刷所などで印刷工として働きます。1936年に見合い結婚し、次々と子供が生まれるなか、ポスターのデザインなどを手掛けるようになります。また、終戦直前の2年弱を韓国の竜山、井邑で衛生兵として過ごします。1950年ころから小説を書き始め、1951年に「西郷札」が入選して以降、作家としての活動が中心になります。ずいぶんと遅咲きの作家だったようです(42歳で入選)。1953年に東京に転勤になり、杉並区荻窪練馬区石神井などに転居。1958年に「点と線」「眼の壁」を発表。1961年に杉並区高井戸に居を構え、「砂の器」「けものみち」などのヒット作を次々に世に出しました。

記念館には、杉並区高井戸に建てた自宅の一部が実物大で再現されていて、すごく見ごたえがあります。地図及び写真で見ると、敷地のすぐそばを井の頭線が走っており、電車の音が相当うるさかったのではないかと思いますが、清張さんは気に入っておられたようです。再現されているのは、玄関、応接間、書庫及び書斎で、応接間の絵や置物なども当時あったものが置いてあった場所のとおりに再現されているとのこと。再現された部屋の中には入れませんが、外から見るだけでもすごい臨場感で、今にも清張さんがふらっと現れそうな雰囲気です。

また、自宅の再現の前に置かれているモニターでは、清張さんを担当されていた何人もの編集者(10人超)がインタビューに答えて、清張さんがどういう方だったかを語っていらしたのが面白かったです。清張さんは、新人編集者は応接間に通してくれず何回も通ううちに漸く応接間に通してくれるようになったとか、原稿を書くと編集者に「面白かったか?」と聞いて反応を知りたがり「面白かったです」と言わないと不機嫌にはなるが原稿は書き直してくれたとか、滅多に人を褒めないけれど原稿を書くのに必要な資料を集めて持って行くと「よくやった」とほめてくれたとか、徹夜明けのドテラ姿で階段を下りて現れたとか、他の小説家は遊びたがるが自分は書くものがありすぎて時間がないから遊ばないと語ったなど。親しい編集者だからこそ語りえる作家「松本清張」の姿がそこにはありました。

記念館2階に上がると、再現された自宅2階建物の清張さんの書斎(執筆部屋)や書庫を覗き見ることができます。机の上に原稿用紙が広げられていたり、文具が置いてあったり、こんな環境で執筆活動をされていたんだという状況を事細かに知ることができます。

また、清張さんの本棚に並べられている本の背表紙がコピーされていて、どんな本が並んでいたかも見ることができます。見たところ、晩年に凝っておられたという古代史の本が多かったですね。

作品を執筆するのに、手触りなどを確認されたいということで、土器なども集めておられたとのこと。昔の作家のスケールの大きさを感じます。

地下に下りて、企画展「松本清張と東アジア」も見ました。清張さんは海外に行きたがっていたので、韓国に派遣された際には、衛生兵としての地位をちゃっかり利用して、病院などへのお使いにかこつけて市内散策を楽しまれたり、ということもあったようです。企画展では、敗戦後に兵士が韓国で荷車に荷物を載せて退却する様子の動画が放映されていて、この当時のこのような動画が残っているということに驚きました。

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清張記念館の前のイチョウ

記念館の見学を終えた後は、小倉城へ。この地を治めていた毛利氏の肖像画や、宮本武蔵佐々木小次郎の巌流島の決闘や、武蔵の「五輪書」についての展示などがありました。

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小倉城

お腹が空いたところで、旦過(だんか)市場へ。そこそこ人出があって賑わっていました。

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市場のくじら肉店

お鮨が食べたいなーとうろうろしていると、こんな看板が!→「市場寿し」 やる気があるんだかないんだかよく分からない名前ですw でもね、ネタが新鮮で脂がのっていて歯ごたえもよく、めっちゃくちゃおいしい!しかもお安い。オーナーさんは若い男性(たぶん30歳位)ですが、腕と舌は確かです。小倉に行く方は絶対に行きましょう!

損はさせませんぜ~。

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旦過市場内の「市場寿し」

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にぎり(10カン、1200円)

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海鮮ちらし寿司(1000円)

満足したところで小倉のホテルに戻り、預けてあった荷物をピックアップして、小倉駅へ。新幹線で博多まで移動しました。博多駅からバスに乗り、中洲川端駅近くのホテルへ。少し休んでから、屋台街に繰り出しました。

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橋のイルミネーション

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クリスマスの飾り

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川沿いの電光掲示板 大阪道頓堀に似た華やかな雰囲気

川沿いの屋台、大通り沿いの屋台を一通り周り、おいしそうなところを見繕います。この日は平日だったためか屋台が少なくて、全部で20~30件位。

最初の1件は、ガイドブックにも乗っていた「武ちゃん」。かなりの人気店で、並ぶときは数時間待ちとかあったそうですが、コロナ禍のためか人は少なく、呼び込みのお兄さんが客を呼び込んでいる状態。そのため、女将さんと息子さんともお話をすることができました。屋台を組み立てるのに1時間半、バラすのにも1時間半かかり、お金を稼ぐのは本当に大変なのよとか、女将さんも独身時代に屋台に食べに来ていたが、まさか自分が屋台をやることになるとは思わなかったとか、有名タレントや政治家も食べにくるというお話など。屋台の天井裏には数々のお客さんの名刺が挟んであって某テレビ局のディレクターのお名前などもありました。

 

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武ちゃんの入り口

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名物の餃子

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どて焼き

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とんとろ塩焼き

どれもおいしいです。が、結構お値段はかかり、2人分でトータル3800円(酒含む)。屋台をはしごしたい人は軍資金をたっぷり準備してから行きましょうね。

お腹が少し膨らんだところで、二件目の屋台に行くことに。

今度は「ともちゃん」です。

 

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ともちゃんの入り口

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おでん

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とん骨ラーメン

ラーメンは、見た目に反してあっさり味。すごく食べやすかったです。

お酒やぼんじり焼きなども頼んで、お値段2500円でした。

屋台巡りのために街を歩いてみたところ、すごく多かったのが「無料案内所」。我々が歩いた1km四方に10件位はありました。200~300m歩くと次の案内所がある感じ。お客さんが少なくて、案内所には暇そうな顔をした担当者っぽい中年男性が所在なさげにたたずんでいました。新宿歌舞伎町でもあんなにたくさんの「無料案内所」はないと思う。女の子のいる店に入るためにどれだけの案内所の費用(場所代、人件費)が上乗せされているのかな。その分女の子の手取りが少なくなりそうで、気の毒な感じがしますが、どうなのでしょう・・・。

あと、博多は男性同士の飲みが多くて、女性連れや女性同士の飲みはあまり見かけませんでした。女性があまりお酒を飲まない土地柄なのかもしれないと思いました。

5日目はここでおしまいです。

では、また!